昭和43年09月22日 朝の御理解



 御理解 第25節
 「信心は大きな信心がよい。迷い信心では、いかぬ。一心と定めい。」

 信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかん。一心と定めい信心は大きな家。大きな信心とはどう意味の事。迷い信心ではいかん。一心に定めいと仰る。どこへ一心を持って行き。どこへ一心を定めたらよいか。お道の信心はあまりにも大きい。あまりにも深い。広い。いうなら掴み所がないような感じさえする。かと言うてやはりおかげを受けて行かなければならんのです。
 一つ一つを真心をもって神様に打ち向こうて行く。そこからいよいよ神様のお心の深さ広さも段々分かるようになり、又その偉大な働きに触れる様な事も出来る様になる。それで大きなおかげにも信心にも進んで行き頂いて行けるようになる。迷い信心ではいかん。大きな信心でいけ。そこで大きな信心を頂かれた、教祖様のお言葉と御教えと言うものが、いよいよ深さを感じるのですけれども、それとてもこちらの信心がそこまで進んでいきませんと、その広さも深さも分からない。
 いよいよ神様の有難さも、信心をより高めて行かなければ分からない。そして行けば行くほど限りがない。その深さ広さを分かって行くと言うことにおいても限りがないのである。そこにもちろん、限りないおかげに触れていけれる分である。例えば金光教の教典であるところの183か条のお教えがございます。神戒神訓がございます。今その神会神訓がこれを読んでしまえば、まあ1時間もあれが読んでしまうほどの簡単なものである。これが金光教の教典か、まあこれを仏経あたり。
 又キリスト教あたりの教典、あるいはバイブルであったり、教典であったりするようなものは、それこそ莫大なものである。それが教典なんです。けれども、金光教の教典はたったこれだけなんです。頭の良い人はこれ丸暗記も出来る。先日あのう壱岐の末永さんのお父さんが見えておられました。壱岐の先生です。私はもう驚いた。というより当然そげな事は当たり前のと思うのですけれども、なかなか出けんのですけれども。もう教典のどこを言うても暗記しておられる。
 もう一言一句間違いなしに暗記しておられるそうしていうておられるよその先生方がです、お説教されよるときに一々本を見てから、言われるのが自分で不思議なよう。自分はもうそれを覚えておられる。私共でも全然これを暗記は出来ません。ですからその一言一句の上にもです。大変な意義があるから、間違えてはならない。そりで教典を開かせて頂いてお話を聞いて頂くわけですけれども、その一言一句の又、意味の深さに只々驚いてしまう。やはりいがいの言うと言う様な事を申しますね。
 言葉の他の言葉と例えば、文字はこうこの文字に現れておるけれども、その文字一字の持つ深さに教祖がそれを教えられたその言葉の一言言うなら一点一角の上にもです、大変な意味の深いことに驚いてしまうのです。今度10月16日御大祭に併せてここの開教一年祭がございます。それについて記念品を何かと私の今度のお祭りを頂く一つの方針と言うものが一年祭を仕えるここに教会が出来ると言われるまでには、随分内部の努力精進はもちろんですけれども。
 外部の方達にも大変なご迷惑をかけたり、お世話になったから、そういうご迷惑かけたり、お世話もなったりした方達に対することを、第一に心がけさせて頂いた。例えば記念品一つでもそういうものに、力を入れさせて頂いた。けれども今度その一年間の間にお互いの信心が、それだけ深められた高められた。いわゆる大きな信心へ限りなく、歩み続けてきた。その一年間の間にお互いの信心がどれほどに育てられ、どれほどに進められたかと言う事を思うと。
 確かに一年前の合楽の皆さんと、現在の皆さんの信心の内容と言うものは、大変に進められてきた。高められてきたと私しは思うのですね。ですからその事に対する所のお礼の一年間の間、信心を分からして頂いた所のお礼とこれからも又、限りなく進めて行かなければならない事のために、何が一番よいかと言う事になったときにです。結局この御教えをいよいよ深め高めて行くと言う事が、有難い事になったんです。
 そこでこの夏の修行一時の一番暑い盛りを時間をよって50日間、50日間日にちを切って特別の御記念会がございました。夏期修行であります。ですから夏期修行の時に神戒神訓信心の心得と言うのを50節毎日一節ずつ頂いていった。それも新たな角度から頂いた。それは18年間の間ずいぶんこの教典をもうずいぶん話に話して説きに説かして頂いたけれど、まぁだ限りがないのです。私自身がそれを思うのですから、毎日私のお話をみんな記録に残してある。テープにみんな残してある。
 あれだけ頂いておるのにまだ、まぁだ頂き足りない説き足りない感じなのです。まだこれからも恐らく続けられて行くであろう。その時の50日間の事、塗板に毎日掲示されましたですね。あれを書き留めてございましたから、それを教典いわゆる50節御理解共に3ヶ条ありますからその内の50節、50日間頂いて来た。それの解説をですね。御書物にしようと、それならばこれはもうお道の教典であると同時に、これはいうならば私の信心によって頂いた。
 御教え私の信心程度によって解説されたものでありますから、これは合楽の聖典と言う事にもなる。ですからもうできるだけ金はいくらかかたっちゃよかから、ひとつ立派なものにしようと言うのでこういうのが、これは書いたものですけれども、これだけのものが出来る。もう見事にこんなふうに成さんが書いて下さった。昨日一日がかりで書いております。こう言うものが出来るんですがこれを繰り返し読ましてらいながら思うんですよ。もう本当に一言一句と言うて本当に。
 御神意の深さに只々一言一句の中にでも驚いてしまうんです。ただ表面に出ておると言うことは氷山の一角であってですね。その根の深さ広さ、これを例えば教典、聖典としたならばですよね。なら合楽だけでもですよ。ここに書き留められておるあれだけの御理解集と行ったようなものがです。それこそ莫大な教典になるだろうと思います。そして又恐らくは、それが限りなく説き続けられているのですから。それこそ海よりも深く広く、山よりも高く重いと言う事になるのですよ。
 そういう例えば大変な信心を例えば私共に信心を。聞いただけでも、疲れると言う感じもするけれども、その一言一言がです。血肉になっていく事が有難いのである。いわゆる、人間形成の上にそれをお役に立っていくのである。心創りの上にもそれがお役に立っていくのである。ですからそういう、いうなら一生かかっても恐らくは出来ないのであろうと言う様な大変な勉強にお互いが取り組んでおる。ですからそれがただ漠然と分ったと言う訳ではないけれども。
 ここに一心と定めいとこう言うておられる。ですからこれはいろいろ頂かれましょうけれども。例えばその莫大な御教えを一つなら一つをです。私共が一心と頂いて定め、それをいよいよ自分のものとして行く事に、いよいよ本気にならして頂いたら、そこからおかげを頂いていけるのがお道の信心である。天地の働きと言うものが、あまりにも広く大きくそれを説かれた、教祖のお教えがあまりにも深遠なものである。
 唯教典に現れておる文字の所だけをその意味だけだったら、簡単な事であるけれども、読むなら、一時間かからず、読み上げてしまうほどのものでであるけれども、その深さにおいてはとてもとても私共が一生かかっても解き明かせられる事ではないのだけれども、そこに私共限りない神の叡智とでも申しましょうか。神の智恵に触れて行けれる人間の幸せをそこから頂いていけれる訳であります。天地の働きというか天地の働きの意味の深さと言う事は勿論です。
 けれども又、その様にすさまじいものである。天地の働きと言うものは、そのすさまじいまでの働きが言うなら、どこに焦点におかれてあるかというとですね。人間氏子が真実幸せになって行く事。その社会がいよいよそういう幸せな社会になって行く事。人間が世の中がいよいよ幸せになって行く事。そこに天地の願いと言うか、そこに天地の焦点がそこにあるのです。その大きな広いその高度な御教えをですね。わかりません。けれども大体大づかみにしてですね。
 どう言う事が説いてあり、どう言う事が天地の広さ、大きさと言うか、その心がと言うとです。唯氏子、いうならば、かわいいという一念だけなんです。天地の働きは。人間を真実幸福にせにゃあやまんという。そういう働きそこで私共はそういう幸福にいたい。そういう幸福を得たい。折角この世に生を受けて来たのであるから、この世を有り難い世にして行こう。有難い私にもならして頂こうと。そこにお互いの焦点も又、おかれなければならんと言う事が分ります。
 お互いの信心の焦点もそこにおかなければならないね。迷い信心ではいかんとこう仰っておる。ちょっとしたことにもう迷う。ちょっとしたことを聞くともう迷う。ですからその迷わんで済むおかげを頂くために、やはりそうした大きないわゆる信心は、大きな信心がよいという大きな所にめざしをおかなければいけないね。いわゆる本当の信心を頂きたい。いよいよ真の人になりたい。そういう例えば願いですから、どう言う事を見ても聞いてもそれが、私共がいよいよ真の信心を頂くための、真の人にならして頂くためのそれであると言う事になってくると。
 迷わんで済むのです。迷い信心ではいかぬ一心と定めい。そこでそんなら一心と定めると言う所をです。どこにおくかと私はもう何と言うても、その天地の事は全ての事はわからぬことばかり。「天地の事は人の眼をもっても知りて知り難き」と教えられる。人間の眼をもっても知りて知り難きだけれども。私共が信心するものは肉眼おいて心眼を開けとおっしゃるから、心の眼を開かせて頂きよるとです。そこから天地の事が一歩ずつ天地の心に踏み込んでいく事が出来る。
 天地の心が分かって行く様になり、そこで一心と定めさして頂くと言う事をです。天地の心に通う心通じる心、天地ほど偉大で天地ほど深く、そして広く人間氏子の幸せを願ってくださるものはないだろう。そこで私共も天地の心を心としてです。いわゆる大きな心大きな信心、そして天地の心を心とする。いわゆる実意丁、天地ほど正確で実意なものはないのですから、その天地の心を心とすると言うこと。それ、私共は実意丁寧、そこで教祖は実意丁寧、神信心と仰せられた。
 ですか、私共がどこに一心を定めるかと言うと本気で実意丁寧、神信心をさせて頂こう。実意の人にならせて頂こう。ここに焦点がおかなければどういう深い例えば、どういうお教えが深遠ものであっても、深遠なものに触れていかれません。実感をもって触れていかれない寄りつかれない。実意もってしなければ、そこでんならお互いが、実意なら実意でありたい、と願うのである。実意丁寧なありかたである。そんなら実意丁寧とはどういうような生き方をさせてもらったらよいのか。
 三代金光様はそこんところを「わがままと横着をせねばよいでしょう」とこう仰っておられる。我がままと横着、私共日常生活の中からです、わがままな心横柄ないわゆる横着な心、これを例えば除くことに一生懸命になったら、残るものはやや実意なものが残るのです。答えが出てくるのです。横着な生活態度いけません。横着な生き方がです。態度に現れたり言葉に現れたりする。そういうところから、本気に取り組んでいかなければならない。いわゆる我がままをする。
 私共が我がまま勝手な考え方、又は我がまま勝手な行動、どこまでもこれは私各々なりにです。よくよくそこんところを考えさせて頂いてこれは自分の我儘だなと気づかせて頂いたら、そこを詫びてそこを改めて行くと言う生活。そこに一心を定めるより他にないように私は思うのです。お道の信心はあまりにも大きいあまりにも偉大である。おそらくはお互い信心を継承して行く人によってですいうなら、このたった183か条の教典がです。どれくらいこれから深いものに広いものに又、なっていくかわからん。
 これを合楽で頂いて来たことだけでも、それが言える。しかもこれからも私がここに生きている限り、この経典を取り組んで行くことであろう。毎日183か条お教え説く事であろうところが毎日毎日、その焦点と言うかその頂くところが違うじゃないか。それを求めてでも深さ広さを感じる。18年間説きに説いて来たけん。もう大概説き明かしたかと思うとそんなこっちゃないまだ限りがない。そういう大変な言うならば知恵を身につけて行くと言うか同時にです。
 身に着けてした所でその根本になるものは、実意丁寧神信心だと実意をもって頂かなければ、それを実意としてはぁ成程そうでございますと頂けないのが実意丁寧神信心。そこへお互いの一心をいよいよ定めさせて頂いて実意丁寧な信心から、その偉大な信心に触れていく。すさまじいまでの神様の働きを自分の身にも家にも受けていく事の出来れる信心。いよいよ明日は23日の月例祭に合わせて秋季の霊祭、御霊様のお祭りがございます。お互いのここへ御神縁を頂いている限りの人のいうなら御先祖さま。
 御霊さまがこの合楽の大広前に一堂に集まれるわけである。自分方は仏教でしとるけんで、金光様の信心はしよるけれども、と言う様な事はない。それは神様の思いである。みんながおかげを頂いていかれておると同時に皆んなの根である先祖が生き生きとしてこなければ、枝葉に生き生きとしたものが現れてくるはずがない。明日はそういう意味で御先祖様のお喜びいただけれるような言わば、お祭りでありたいと各々が心がけなければならないと。
 同時に私はこの度の、御霊様のひとつのお祭りの焦点と申しましょうか。これは只今申しますようにあまりにも天地が偉大である。あまりにも大きいから、どこに縋って良いか分からないぐらいになる。あまりにも大きいから、どこに縋って良いか分からない位にある御神殿に出て、けれども不思議なことにそこに教祖様が取次いで下さり。その教祖の取次いで下さった信心を九州で言うならば、桂先生が受けて下さり、福岡の初代吉木先生が受けて下さり、久留米の初代石橋先生が受けて下さり。
 それを善導寺の荒巻弓次郎先生が受け継いで下さり、それを私が受けしておるのでございますから、ですから「親先生」と言うたら、そこに切実な実感が湧いてくる。私がここで御霊様を拝むのに、私ほど時間を欠けるものはおらんと思うのですけれどもね。私ぐらいの信心で人が助かる様な事は出来ません。そこで先輩であり先覚であるところの私の手続きであるところの桂先生、石橋先生、吉木先生、荒巻先生と言う様にお徳を受けられた先生の御霊様におすがりする。
 そこにね何かいちいち私の願いを、先生が聞いて下さる取次いで下さる実感があるんです。私にはですから明日の御霊祭は各々の家の御霊さま、先祖の御霊様は勿論でございますけれども明日の焦点はですね。私共の一番身近な教えを下さる。私共の一番身近なおかげをお取次ぎくださる。そこに親先生と言えば、親先生が現れて下さる様な、いわば御霊さま方のお祭り、言わば御霊様の御大祭をそこに焦点をおいてその次に私共家のいわば、家の御霊様への慰霊祭と言う事ですね。ならして頂きたい。
 私はそこんところにとりわけ、焦点をおきたいと思います。もうお互いがさあ、自分たちの御霊様のことばっかり考えて、家の霊様はボタモチが好きでいらっしゃったから、うちの御霊様はお酒がすきだったからと、言うだけの小さいものではなくてでですね。けれども、今日の御理解を頂くとね。天地はあまりにも偉大であるけれども、天地の偉大なおかげを私共に分かりやすく、おかげを頂きやすくして下さった。先代先覚の先生方の御霊様へですね。お礼を申し上げれる。
 本当に御霊様の御大祭としての、私は内容をもったお祭りにさして頂きたいと言うふうに私は願っております。ですから皆さんもそういうお積りで、明日のお祭りを頂いて頂きたいと思うのでございます。いわゆる実意丁寧を持ってですね、そこに一心を定めさせて頂いて、いよいよおかげを頂きたい。それはあまりにも偉大なあまりにも高い深い信心でありますけれども、だからというてそれを放任しておくわけにはまいりません、いや私共は限りなくおかげ受けていかなければならないので、ございますからそういう大変な信心に、私共は一歩一歩その信心の奥雅に進ませて頂くと言う事。その信心をですならどういうふうに一心を定めて行くかと言う事。勿論迷うこともなからなければ、疑うこともない。ただそこに一心をおいて、これは神様のご都合に違いないと言う頂き方、どのような場合でもそのご都合と言うのは、神様が氏子をいよいよ幸せにして下さらなければ、おかんという神愛の現れがそれである。と分からして頂く。そこんところを又、なおまた実意丁寧を持って受けていこうという信心なら、実意丁寧とはいよいよ私の信心生活の中から、我がままと横着を取り除かして頂く実意な生活、実意な生き方をさして頂こうと願うところから、いよいよ深い広いお教えに触れて行くことが出来る。これを自分のものとして頂いてゆくことが、出来ると私は思うのです。
   どうぞ。